改めて災害に備えよう、必要なのは「もの」だけでは無い、助け合いと感謝

雑記

みなさん、おはこんばんちわ【じっこ】です。

2024年元旦の能登地震、台湾でも大きな地震があり津波警報、今後も日本に住んでいる限り災害と共に暮らしていかなければなりません。

私自身2011年の3.11に被災。災害発生前と直後、その後の避難所生活で準備していて良かった事、心がけなど書いていきます。

避難所と持ち出し荷物の確認

  • 自宅、職場近くの避難所の確認(公共施設)
  • 通帳や免許などの貴重品
  • 懐中電灯
  • お薬手帳と服用しているお薬(約2週間分)

災害の規模によっては自宅避難という選択肢もありますが、災害はいつどこで起こるか分からないですし、今回は3.11級の災害から見た最低限を選んでいるので、これでは足りないと感じるかも知れませんが生きるためのものを最優残しました。(これぐらいは普段からバッグ一つで持ち歩けます)+αで必要なものは頼る。

当時、母親を避難させた場所が役所でした東松島市の旧鳴瀬庁舎は3階まであり、その後津波であたりは浸水し水が引くまで3~4日は掛かりましたが、公共の施設であることから丈夫さなどで安心感はありました。

ライフラインが無い日常では、日の出とともに行動を開始し、日没には寝るぐらいの生活です、自宅避難や車中泊と違い公共の避難所では水や食料を心配することはまずありませんでした(今後は水食糧に加え、粉ミルクや生理用品の備蓄も重要かと思います。)
電気が復旧するまでは夜間トイレに行く時、懐中電灯が必要でした。

避難所で体調を崩すこともあるので、お薬手帳はあると安心です。(うちの母は避難所でメニエール病になり一時救急搬送されました)

車のガソリンは常に半分以上をキープ

  • 車を日常的に乗る方はガソリンを半分以上キープ
  • 自転車はあると絶対便利

3.11は津波被害でガソリンスタンドが多数やられてしまいました、被害の大小にかかわらず、車を日常的に利用しているエリアの方はガソリンが半分になったら給油するぐらいでいた方が安心です。

自転車は小回りが利きますし、当時ガソリンを節約する意味も込めて私は10キロ程度の移動距離なら自転車を利用してました。

避難所では感謝を口に出す

見ず知らずの人たちが集まる避難所は、合宿のようなもの。

今でこそ、避難所でパーティションなど家族ごとに仕切りがあったり、段ボールのベッドが当たり前になっていてパーソナルスペースが確保されていますが、2011年時は薄いマットの上にみんなざこ寝でした。

避難所生活が長引くとみんな不満が溜まってきます、そんな中でこそ言葉は大事だと感じます。「おはよう」「ありがとう」「お疲れ様」集団生活はみんなの協力あってこそです。

AIが進化しても災害がいつ起こるか?はまだ分からないですよね。

出来ることは準備して、起きたなら目の前のことに出来る限り専念する。(落ち着くまでネットも電話も使えません)事前にイメージして置くことはとても大事です、自宅で、職場で、出勤途中などいろんなパターンをシミュレーションして置くのは災害に対する準備になります。

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